さるしま要塞物語
夏には多くの海水浴客で賑わう猿島ですが、島の中にはもう一つの顔が隠れています。
うっそうと繁るタブの森の中には、レンガで造られた要塞が、今なお残されています。
猿島は東京湾ののど元に位置するため、海の守りの要として、幕末・明治初期・昭和と3度に渡り砲台が築かれました。
黒船がたびたび姿を見せはじめた幕末の頃、江戸幕府は海上防備のため、全国初のお台場と呼ばれる砲台を、猿島に3ヶ所建設し、黒船に対する守りを固めました。
以来、猿島は「要塞の島」としての歴史を歩み始めました。
明治時代中期、明治政府は東京湾の守りを固めるために、猿島に砲台と要塞を設けました。
砲台には敵国の戦艦を迎え撃てるよう、フランスから輸入したカノン砲が配備されましたが、実戦で使われることはありませんでした。
その後、第二次世界大戦の激化とともに戦雲が本土へと迫り、再び防衛施設として重視されることになります。
昭和16年頃より鉄筋コンクリート制の円形の砲座が5座造られ、その上には高射砲が配備されました。
高射砲は終戦とともに進駐軍に解体され、砲台だけが残されました。猿島に現存する砲台跡は、この時期
のものです。
フランス積みレンガの要塞
明治時代に建造された猿島要塞は、すべての施設が岸壁を彫り込んで造られているので、島の外からは、まったく見えません。
弾薬庫や兵舎は、島の中央部を縫う露天掘りの幹道に沿った、トンネルで連なる地下構造になっています。そして、この要塞を覆うのがフランス積で積まれたレンガです。
日本でのレンガによる建築は、幕末の長崎に始まり、文明開化とともに全国に広がりました。
しかし、そのほとんどは地震や老朽化により失われています。
レンガの積方も、明治20年頃から主流になったイギリス積はたくさん作られており、今も日本中に多く残っていますが、フランス積は造られた時期が早かったことから、ほとんどが壊されてしまい、日本でも猿島要塞を含め4件が確認されているのみです。
エキゾチックなレンガのトンネルは、建築史上とても貴重な建築物なのです。
さるしまに伝わる伝説
日蓮上人にまつわる話(猿島の名前の由来)
日蓮上人が小舟で東京湾を渡っている際、あたり一面が濃い霧に覆われ、行き先が全く分からなくなってしまいました。日蓮上人がお題目を唱えると、舳先にどこからともなく現れた白猿の案内によりたどり着いた島という伝説に因んで「猿島」と名付けられたそう
です。
その後、地元漁師の助けを得て、現在の米が浜に上陸する際、サザエで足を切ってしまった漁師を見た日蓮上人が、お題目を唱えてサザエから角をなくしたため、この付近のサザエには角がないそうです。
猿島春日神社の大蛇
現在、三春町にある春日神社は、猿島大明神として、明治17年まで猿島にありました。7月下旬の大祭前後には毎夜のように上総の鹿野山から猿島へ、大蛇が泳いできたといいます。この大蛇は守護神で、猿島の北側の洞窟に住んでいたそうです。なお、この洞窟は、江ノ島の岩屋や富士の麓まで続いていると言われ
ています。
豊島
「猿島」と呼ばれる前は、猿島の周りには大小併せ十個の浅瀬や岩礁があることから、十の島で「十島」、験を担ぎ「豊島」とよばれていました。明治21年になづけられた、上町の「豊島小学校」に名残を見る事ができます。また、今でも地元の漁師さんは「猿」が「去る」に聞こえるため「豊島」
と呼ぶことがあります。
タブの木の森
猿島を海上から眺めると、黒々とした色の森が目につきます。
これがタブの森です。
猿島桟橋の北側崖上にはみごとなタブノキが多く見られます。この景観は、三浦半島に残された数少ない原生林といえます。
猿島の周囲は大部分が急斜面や断崖となっているので、特にこの部分には森林がよく残っています。
大昔の三浦半島にもこのようなタブ、ヤブツバキなどの常緑樹が繁り、昼なお暗い森でおおわれていたのでしょう。
島内の林床にはシダ類がたくさん生育し、空中の湿度も高くなっているので、多くの植物の生活に適しています。
長いトンネルを抜けて眼前に現れる光景は、さながらミニ・ジャングルといえましょう。潮風に強い海岸植物も崖地にみられ
ます。
HPの猿島の歴史・文化から引用させていただきました。